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花の冷、花林檎

きょう届いた贈呈の俳誌「ランブル」に、主宰の上田日差子さんの文章として、「花冷(え)」を「花の冷え」と分けて詠んでしまうと、桜自らが冷たいことを意味するだけで、「花冷」という季語の冷え冷えとした大気の状態を表すものには成りかねるのではないか、ということが書いてありました。なるほど、言葉の結晶である季語を崩さず使うことによって、季語本来の意味や情感を正確に伝え、一句の品位を高めるということは、確かにあると思いました。それとは逆のケースになるかも知れませんが、おとといの黒川の吟行句会では、「林檎の花」を「花林檎」と詠んで下五に治めるのはあまりよくないのではないかという疑問が出されました。季語を下五などに治める工夫としては「花の冷え」と同じなのかも知れません。実は、歳時記では「林檎の花」の例句の半分以上が「花林檎」であって、あの虚子の「新歳時記」でも虚子自らが「面つつむ津輕をとめや花林檎」と詠んでいるぐらいですから、「花林檎」は傍題以上の季語の用法として公認されていると言えるでしょう。しかしこれを日常語のレベルで考えると、ふつうは勿論「花林檎」とは誰も言わず、例えば「二ン月」とか「雛(ひいな)」とかの五音に治めるための俳句的なムリの範疇に入るのかも知れません。以上二例、季語に対しては、できるだけ歴史的な本意を大切にしながらも、日常感覚を離れた俳句的な作為に落ち込まないよう、できるだけ細心の注意を払うべきである、というのが私が学んだことでした。

  桜しべ降り初め我は気短で        大波

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